第7回 我が国における食品の品質衛生管理のすがた
2014.10.15
J・FSD㈱ 池亀公和
食品衛生管理者にとっての仕事を考えるときに、その目的や目標はどこに置けばいいのかということを思うとなかなか難しい。国際認証を取得することなど会社からの指示があればそれに向かうことができるが、それはただの手段でしかなく食品衛生管理者が最終的に向かうところではないはずだ。
では、このような我が国の食品衛生環境はどのようにして出来たのだろうか。それを考えることにより本来の方向性や考え方が分かるかもしれない。
我が国の食品衛生レベルが他の国々と比較しても非常に高いところにあることは今までのコラムでも述べてきた。
ではその原動力は何だったのかを過去の我が国の食品衛生の歴史から見るとその流れが見えてくる。
その大きな原動力の一つは行政の主動であろう。食中毒による死者数は昭和50年代には激減しており、その後ほとんど発生しない時代になっていく。
当時の厚生省は、食品衛生に対する考え方として少しでも食品中の細菌数を減少させることに主眼を置いていた結果、昭和60年に厚生省は我が国の食品衛生環境がある程度のレベルに達したと判断し、生活衛生局食品衛生課を生活衛生局食品保健課に変えた。つまり、食生活の環境を、食品中の生菌数を極力減らそうとする食品衛生の考えから、健康を維持向上させる食生活へと変わっていったわけだ。
衛生は、「生」を「まもる」ことであり、必然的に食品から細菌をなくすことに主眼が置かれる。そのために多くの添加物や農薬などの開発が進み使用されるにいたる。その結果食品中の生菌数は抑制できるようになってきたが、アレルギーなどの症状が目立つようになり保健という概念に至った。保健は健康を保つことであり、添加物や農薬に頼るばかりではなく健康に役立つ食品製造が望まれるようになり国民の健康志向が進むようになる。
ところがその後すぐ、平成8年岡山や大阪を中心に大規模な腸管出血性大腸菌O157の事件が発生し、8名の食中毒死者をだしたことが大きな原因となり、厚生省では平成13年には生活衛生局食品保健部から食品安全部監視安全課とさらに変遷していく。つまり、また初めの食品衛生の考えに戻ったともいえる。
その結果、食品衛生管理手法としてのHACCPシステムの推進が始まり、昨年には日本再興戦略の閣議決定で、食品メーカーにはその導入が積極的に求められるに至っている。
戦後、行政の主動で進んできた食品衛生の環境はその結果を見てもわかるように非常に成果を上げてきたことがわかるが、もちろんそれは行政主導だけの影響ではなく、我が国の食品衛生とその文化までも変えてきたコンビニエンスストアーや大手スーパーマーケットの影響も忘れることはできない。
国の大きな方向性も大きな影響として現在の食品衛生環境ができてきたが、食品衛生管理者にとってこれからどこへ向かって仕事をすればいいのかというと、0.0002%の食中毒患者発生率をどれだけ下げることができるかということになり、非常に難しい問題である。
次回コラムはこの続きをさらに掘り下げてみる。