第63話 北里柴三郎―日本の細菌学の父
2019.06.01
1970年代から微生物、特に細菌の研究は科学的な根拠を示せるようになりました。その活用により感染症の患者を救うばかりではなく予防もできるようになりました。食品の分野でも、食中毒の原因菌などの分離同定が可能になり、予防方法も科学的な根拠が与えられるようになりました。我が国の細菌研究の草分けとしてドイツ留学を命じられた北里柴三郎博士(1853~1931、図1)の活躍に敬意を表して、今回の話題とさせていただきます。
1)フランスのパスツールとドイツのコッホ
ルイ・パスツール(1822~1895、第8話参照)は食品などが腐敗し変化するのは、肉眼では見えない微生物の仕業であると主張しました。スープなどは自然に腐るのではなく、微生物が存在し、増殖した結果だということを白鳥のフラスコ(図2)を使って証明しています。
パスツールは、「目に見えない微生物は、私たちと一緒に暮らし、死んだものを無機のミネラルやガスに変化させるという重要な役割を果たしている。もし微生物がいなければ、たちまち世界は死んだ有機物で一杯になり、私たちは生きていけなくなるだろう」と述べています。
パスツールには一種類の細菌を単独で培養する方法がなかったため、病気と細菌の因果関係は証明できませんでした。19世紀は多くの人が集まって暮らすようになり、コレラやペストなど流行病として総称される原因不明の病気に苦しむ時代になっていました。
ロベルト・コッホ(1843~1910)が、多くの病気の原因は細菌などであることを証明しました。彼は栄養素を含んだ固形培地の上では、菌種ごとにコロニー(集落)が作られることを見出し、細菌を一種類ずつ純粋培養することに成功しました。それぞれの感染症は、それぞれに対応した病原細菌が原因となることを発見しました。1880年代には、結核菌やコレラ菌を発見しています。
コッホは1883年、病気と微生物の関係を客観的に証明する方法として「コッホの4原則」(表1)を発表しています。
2) 日本の北里柴三郎
感染症に対する具体的な治療法を開発したのは、北里柴三郎です。32歳でドイツへ留学し、ベルリン大学のコッホの研究室に迎えられました。そして、コッホから病気と病原菌との関係を客観的に証明する基礎的な方法を伝授されたのでした。
彼は1889年、不可能とされていた破傷風菌Clostridium tetaniの純粋培養に成功しました。破傷風菌が酸素を嫌う、いわゆる嫌気性菌であることを見抜き、苦労して酸素を除去しながら培養する装置を作成しました。その装置を使って破傷風菌の純粋培養に成功し、翌年には破傷風の治療法として世界初の血清療法を始め、成功したのでした。破傷風の毒素を中和する血清療法を開発したのでした。当時はまだ抗体の概念はありませんでしたが、血清中の抗体を利用したこの治療法は、世界を驚かせました。北里は続いて同僚のベーリングとともにジフテリアCorynebacterium diphtheriaeの血清療法をも完成させました。
日本へ帰国した後も、北里はペストに苦しむ香港へ赴き、ペスト菌Yersinia pestisを発見するなど多くの業績を残しました。北里は留学先のドイツのコッホの研究室から帰国するにあたり、パリに立ち寄ってパスツールを訪問しています。パスツール、コッホそして北里らの努力がなければ、細菌学の発展はさらに遅れ、多くの病人や死者も出したでしょう。食品の安全性確保も細菌学の発展により、科学的根拠を持って対策を取ることができるようになりました。
参考文献:
1)竹田美文:北里柴三郎ーその1、モダンメディア、60,41-44(2014)
2)竹田美文:北里柴三郎ーその2、モダンメディア、60,158-163(2014)
3)厚生労働省:感染症別情報
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku- kansenshou/index.html