第56話 生麦,生米,生卵と生食パン
2018.11.01
1996年夏,大阪府堺市の学校給食で腸管出血性大腸菌O157による死者を伴う大規模な食中毒が発生しました。原因食は生食された「かいわれ大根」とされました。国民は恐怖におののき,生食は忌避され,リンゴでさえ湯通しされる事態になりました。
時が流れ,2011年には生の牛肉に生卵をかけたユッケによるO111とO157による食中毒が焼肉店で起こり5名の死者を出してしまいました。その後も、白菜の浅漬けなどの非加熱食品による悲惨な食中毒が発生していいます。2015年には,上述の学校給食O157食中毒(1996年)によって溶血性尿毒症症候群を(HUS)を発症していた児童が19年を経過後、後遺症により逝去されています。
「生米,生麦,生卵」は,発音しにくいことから,アナウンサーらの発声練習,一般には早口言葉としても使われています。3者ともに加熱していない食品です。現在では,図1のように「生食パン」のように,加熱食品にも「生」という接頭語が使われています。
繰り返してはいけない食中毒の教訓を忘れずに活かすために,今回は「生」について考えてみ
たいと思います。
1) 「生」の意味
小生は,2006年に北海道に赴任しました。北海道では「生キャラメル」が流行っていました。売店には長い列ができていました。糖液を加熱しないとキャラメルはできないはずだと疑問に思い,店員に聞いてみました。「加熱していますが、未加熱の生クリームを使っているので生キャラメルです」との返事がありました。原料が生であれば,加熱後の製品も生と呼んで良いのであろうかと思われましたが,未だに北海道名物として売られています。
図1の生食パンは,焼き上げた食パンを「そのまま」食べるのがお薦めなので「生」を付けているとのことのようです。通常,食パンはトーストにしたり,バターやジャムなどを付けたりして食べるのですが,そんなことをしなくても美味しい食パンだとされています。
そのまま食べる加熱食品にも「生」を付けても良いとすると, 「生ご飯」「生唐揚」「生落
花生」など,訳が分からなくなってしまいます。麺に至っては,加熱前の生麺か,加熱後の麺か,分からなくなってしまいます。
英語圏では,加熱せずに食べる食品を”Ready To Eat(RTE)”と呼んでいます。弱点は,リステリア等の汚染を受け食中毒を起こす例があることです。今回の「生食パン」は,「RTE食パン」と呼んだ方が良いのではないでしょうか。
表1は,辞書に出ていた「生」の意味です。多くの意味がありますが,興味深いのは、接頭語として使うときには,「いいかげんな」「少しばかりの」「年功が足りない」などのネガティブな意味合いが含まれることです。「ゼロリスク」はありえませんが、「生安全」は困りますね。
時代ともに言葉の意味も変わります。「生」で食べると危ないものは,加熱調理して食べ、「
煮ても,焼いても食えないもの」は,食用にしない食べ事(たべごと)の知恵は,次世代に分かりやすく伝えるべきです。売り上げのために「生」を濫用する商売人を、「道徳なき商業」と批判する社会の良識に期待しています。
2) 火(熱)の利用
人類が類人猿から分かれたのは400~700万年前であると推定されています。火を使えるようになったのは100万年程前になってからでした。自由に火を点けたり、消したりできるようになったのは12万年程前のことであると推定されています。それまでは洞窟で種火を燃やし続けていたと推定されています。
図2のように,火を使う調理は、可食物を増やし、味を変え、消化吸収できることをもたらし
ました。有毒なものを、食べられるようにできる場合もありました。病原菌や寄生虫の活動を防止することもでき、食料の保存性も増加させることができました。火や熱を使う技術により食料は増加し、人口も増加しました。
3) 生食と火(加熱)食
生麦も生米もそのまま飲み込めば、そのまま肛門から出てきます。粉砕すると、少しは消化・吸収されるかも分かりませんが、いずれにしても食べ過ぎれば消化不良を起こします。人間の消化酵素は生麦や生米は加水分解できません。蒸したり、炊いたりした麦や米の消化は得意です。
生麦や生米に水を加えるとエキス分が抽出され、微生物がいれば増殖を許してしまいます。米国やカナダでは、小麦粉等を原料としてクッキーやパンの生地(ドウ)が作られ、冷凍で販売されています。解凍して加熱・焼成し、クッキーやパンとしてして食べるのが期待された食べ方ですが、解凍して、そのまま食べてしまう人もいてO157などによる食中毒が発生しています。
食物アレルギーなどの理由で小麦粉を避けたい人のために米粉が代替品として使用される例が増えています。加熱して食べる農産物としての注意点は、小麦粉も米粉も同様です。
生卵は、我が国では伝統食として食べ続けられています。食文化の異なる国々からは、卵の生食は奇異の目で見られています。3万個に1個の割合で卵の殻の内側にサルモネラSE菌が検出されています。健康で体調の良い人が、新鮮な健全な生卵を食べるようにし、体調等に問題のある人は加熱して食べるようにすべきです。病原菌も卵も、一所(生)懸命に生きています。人間も、命がけで生食をする覚悟が必要なのではないのでしょうか。
加熱にも程度があります。缶詰やレトルト食品のように耐熱胞子の制御も狙った強い加熱もあれば、カツオのたたきのように中身は未加熱のままの加熱まで様々です。強く加熱したとしても、後始末が悪ければ、微生物に再汚染を受けることもあります。表2は、我が国に伝わる調理五法です。
ご先祖の苦労を忘れずに、現代人の知恵で「生」の言葉による混乱をなくしたいものです。
【参考文献】
1)一色:日本における生食文化と食品衛生、食衛誌、54(1).j1-6 (2013)
2) 食品安全委員会:非加熱喫食調理済み食品(Ready-to-eat 食品)における リステリア・モノサイトゲネス、2012年1月
http://www.fsc.go.jp/sonota/risk_profile/listeriamonocytogenes.pdf
3)鶏卵中のサルモネラ・エンテリティディス、2010年10月
http://www.fsc.go.jp/sonota/risk_profile/risk_salmonella.pdf